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クリエイターインタビュー|小森 はるかさん・瀬尾 夏美さん(前編)

仙台と陸前高田を拠点に、ワークショップや対話の場の企画・運営、地域とそこに住む人々にまつわる記録や制作に携わっている、映像作家の小森はるかさん(写真左)と画家・作家の瀬尾夏美さん(写真右)。個人として、ユニット「小森はるか+瀬尾夏美」として、そして一般社団法人NOOKのメンバーとしても活躍しているおふたりに、それぞれの活動を始めるまでの経緯や、活動を通した仙台への気づきについて伺いました。

 

―おふたりは大学で出会われたそうですが、東京藝術大学の先端芸術表現科というのは、どのようなことを学ぶのですか。

小森はるかさん(以下、小森) 英語ではインターメディアアートと言うのですが、自分がつくる作品の表現方法は自由で、メディア横断的に制作する人もいたり、専門的にダンスをやる人も、絵を描く人も写真をやる人もいて……といった感じで、当時は芸大の中で一番新しく設立された学科でした。

―もともと映像に興味があったのですか。

小森 私は映画がすごく好きでというタイプではなく、映像というメディアを使って何かをつくることに関わりたくて、先端芸術表現科を受験しました。不器用なので自分の技術に対してコンプレックスがあったんですが、集団で何かをつくるという芸術分野だったら、表現に関われるかもしれないと思って。

―映像の勉強は大学に入ってから始めたのですか。

小森 映像の勉強は、大学と並行して映画の専門学校に通って学びました。先端芸術表現科は、専門的な知識や技術の勉強というよりは、なぜ自分は作品をつくるのか、どんなコンセプトでつくるのかという表現の根本を考えていく学科だったと思います。

―瀬尾さんは、油絵を学ぶために芸大に入られたのですか。

瀬尾夏美さん(以下、瀬尾) 私も最初は先端芸術表現科にいて、その時は写真をやっていたんです。写真で「過去に誰かと共有した風景を記録しなおす」ということをやりたかったんですが、今はない風景は、根本的に写真には写らない。そこで、絵画なら何かできるんじゃないかという単純な発想がきっかけでした。技術的なものも含めて絵画の洗礼は受けておいた方がいいと思ったので、大学院で学ぶことにしました。

私は昔から絵を描くのが好きなんですけど、絵を自己満足的に描くのはどうしても面白くないと思っていて。絵を介した他者との関係性を考えていくっていうことをやりたかったんです。

―東北には、どんなご縁でいらっしゃったのでしょうか。

瀬尾 大学院進学のタイミングで震災が起きて。自分たちがこの大きな社会の問題と関わりなく作品をつくるのって無責任なんじゃないかと思ったんですが、何をすべきかわからず、まずはボランティアをしに行ってみたんです。それが2011年の4月。最初は、被災地で写真や映像を撮ることで人を傷つけてしまうのではないかという気持ちが強かったんですが、出会った人たちが「あなたたち美大生なら、それやったらいいじゃない。その技術があるんでしょ。私たちのかわりに、その場所に行って、写真撮ってきなさいよ」みたいなことを言ってくれて。そこから、人の話を聞いて書き留める能力やスケッチをする技術が社会に役に立つかもしれないと思い始めました。

東北での活動を始めるまでの経緯を振り返るおふたり

そして、東北で起きていることを他の場所に伝えるためには、作品をつくること、美術的な表現をすることが一番いいのではと思い始めたんです。それだったら、この土地にどっぷりつかっちゃった方がいいなと思って、2012年の春に陸前高田に引っ越しました。そこから3年間、私は地元の写真館で小中学生の卒業アルバムをつくったり、家をつくる仕事して、小森は、流された日本料理屋さんが蕎麦屋として復活したところで働いて生活しました。

引っ越してから3年目には、まちの様子もだんだん落ち着いてきました。その頃から、このまま陸前高田で働いて、生活して、作品をつくっていたら、視野が狭くなるし、そこで起きていることをちゃんと見られない気がし始めたんです。とはいえ、収入はちゃんとしきゃいけないし、問題意識を共有できる仲間も欲しい。そこで、仙台に拠点をつくって、仙台から陸前高田に通えばいいんじゃないかと思って、仙台に引っ越したんです。

私たちはメディアテークでやっている「3がつ11にちをわすれないためにセンター」に2011年から参加しているんですけど、そこに参加していた人たちが2015年くらいになって「また仙台に来ようかな」と言い始めたので、「じゃあ法人をつくろうか」いうことでNOOKの設立につながっていきました。

―これまでのお仕事や作品について、個人ではどういったことをされてきましたか。

小森 震災の後は、ユニットでの作品の発表が多いんですけど、私は映像を軸に作品をつくっています。その中でも映画という領域で自分ができることを考えています。一番最近だと、『息の跡』という陸前高田の佐藤たね屋さんのドキュメンタリー作品を発表しました。

 

『息の跡』は個人名義の作品ですが、瀬尾も佐藤たね屋さんについての文章を書いていたり、同時期に『波のした、土のうえ』という作品をユニットで制作していたりもしたので、まるっきり個人制作とも言い切れないと思います。

 

瀬尾 私は基本的に絵と文章の仕事が多いです。作品展や展覧会に出すような、いわゆる「絵画」っていうような絵や、物語仕立ての文章を書くこともありますし、映画のパンフレットの挿絵として劇中の風景を絵画やイラストにしたりとか、エッセイや小さな論考を書いたりといった、クライアントワークに近い制作もしています。

さらに技術を使った仕事としては、ワークショップの内容を即時的に図式化していくファシリテーショングラフィックの仕事と、陸前高田でずっと小学校を撮っていたこともあって、カメラマンの仕事をしています。仙台で日々している仕事としてはこのふたつが多いです。

―ファシリテーショングラフィックの技術はどこで学んだのですか。

瀬尾 私は陸前高田やメディアテークの講座の見よう見まねなんです。ファシリテーショングラフィックを入れることで、どんな会議でもクオリティが上がると思うのですが、私の知っている限りやっている人は仙台にはほとんどいないですね。メソッドがあると思うので、養成講座を開いて増やしたらいいと思います。耳の不自由な人や話を聞くのが苦手な人の補助としても使えますし、関西だと小さな市民会議でも入っているらしいですよ。

―ユニットとしてはどういった活動をされていますか。

瀬尾 引き続き作品をつくっているのと、陸前高田では毎月「てつがくカフェ」というちいさな対話の場を続けています。それから、東北の山奥のおじいちゃん、おばあちゃんに戦中・戦後の話を聞いて回っています。東北の山奥にいた人たちは、例えば空襲の下や戦地に行った人たちを「当事者」と捉えている方も多く、そう言う人たちと比べると自分たちの体験はたいしたことないと思って語ってこなかった、という人もいます。だけど、直接戦火にさらされた訳ではないかもしれないけれど、当時を生きて、戦争を体験している人の話を聞いてみると、逆に私たちも当事者の遠いグラデーションの中にいると考えられる気がしています。

あとは、陸前高田でつくった作品の展覧会を全国で巡回しています。これは、「東北の震災を伝える」という目的ではないんです。何かや誰かを失ったりとか、急に何かが変わったりする体験をした人ってどこにでもいるので、そういう人たちと作品を介して対話をすることによって、震災との関わり方や共有の仕方を考えたくて、神戸とか、震災の記憶のある土地を中心に巡回しています。

取材日:平成29年6月19日
聞き手:SC3事務局(仙台市産業振興課)
構成:岡沼 美樹恵

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小森 はるか

1989年静岡県生まれ。映像作家。東京芸術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修了。映画美学校修了。日常の中に見える人の佇まいや語りを映像で記録している。2012年より、瀬尾夏美と共に岩手県陸前高田市に拠点を移し、暮らしながら記録と制作を続ける。2015年より、仙台市で一般社団法人NOOK(のおく)を立ち上げる。

瀬尾夏美

1988年東京都生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科絵画専攻修了。土地の人びとのことばと風景の記録を考えながら、絵や文章をつくっている。2012年より、映像作家の小森はるかとともに岩手県陸前高田市に拠点を移す。以後、地元写真館に勤務しながら、まちを歩き、地域の中でワークショップや対話の場を運営。2015年、仙台市で、土地との協同を通した記録活動を行う一般社団法人NOOK(のおく)を立ち上げる。

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