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クリエイターインタビュー前編|福原悠介(映像作家)

「聞くこと」は、物事をただ受け取るだけでなく、とても創造的な行為だということ教えてもらったんです。

地元・仙台を拠点に、アートプロジェクトや民話、人々の生活を記したドキュメンタリーの制作など、記録活動を続ける映像作家の福原悠介さん。カメラを持ってさまざまな人や土地を訪ね、そのすがたを映し出す活動の根底には、震災後の仙台で記録や表現にかかわり続けた作家たちや民話採訪者・小野和子さんと活動をともにするなかで生まれた「聞くこと」へのたしかな想いがありました。

ー はじめに、現在の活動についてお聞かせください。

主に映像制作を仕事にしています。自分の作品もつくりますが、普段はフリーランスの立場でメディア・ストラータというLLPに所属しながら、せんだいメディアテーク(以下、メディアテーク)が主催する展覧会やアートプロジェクトの撮影・編集、スタジオや機材の管理などを行っています。最近では、アーティスト・川俣正さんのプロジェクトや、「みやぎ民話の会」が40年にわたり記録してきた民話語りの映像や音声をアーカイヴし、再び語らえるようにする『民話 声の図書室』の映像制作、同じく仙台を拠点に活動する映画監督・小森はるかさんの映画『空に聞く』と小森はるか+瀬尾夏美『二重のまち/交代地のうたを編む』の撮影・編集などに携わりました。また、自分で撮るだけでなく、教育学者の田口康大さんと一緒に「対話インタビュー」というワークショップも続けています。

ー 「撮ること」に興味を持ったのには、どんなきっかけがあったのでしょうか。

昔から映画が好きでよく観ていたんですが、当時は仙台の街なかにもたくさん映画館があってよく通っていました。僕が高校生の頃は仙台駅の東口にシネアートがあり、街なかに日乃出劇場があり、フォーラム仙台が出来たのもちょうどその頃かな。同時期にメディアテークも開館してそこでも上映していたので、映画にたくさん触れられる環境でした。今のようにネット配信で何でも見れるという時代ではなかったけど、当時の仙台は有志による自主上映も盛んで、たくさん影響を受けられる環境だったと思います。

高校生の頃にビデオカメラを買ってもらい近所を撮影して遊んだりしていたんですが、やはり自分で映画を撮ってみたいという気持ちが大きく、進学先の大学で映画サークルに入り見様見真似で自主映画を撮っていました。今思えば本当にひどい内容でしたが…(笑)。

ー どんな作品だったのか気になります…!

なんかホラーっぽい映画を撮っていましたね。ザ・B級ホラーという感じの…(笑)。ジョン・カーペンターという映画監督が好きだったので、ああいうSFホラー的な作品も。映画学校ではなかったのでサークルのなかで撮ることを学んでいきました。あとは、在学中のインターンで商業映画の現場を訪ねながら映像に触れていましたね。

ー ご自身の表現として作品をつくるだけでなく、記録制作に携わるようになったのにはどんな経緯があったのですか。

こうして記録映像の制作に携わるようになったのは、実は震災後からなんです。大学進学を機に上京し、卒業後しばらくは映画やテレビの現場で撮影や編集の仕事をしていました。あまりうまく行かずに挫折して地元に帰ってきたので、映像の仕事を続けるつもりは正直なかったんですが、さまざまな出会いや縁が重なりまた映像に関わることになりました。仙台に帰ってきた当時は仕事もしていなかったので、地震が起こった日もメディアテークの図書館で本を読んでいたんです。

ー なんと。ちょうどいらっしゃったんですね。

2Fに逃げていったら、だんだんと揺れが激しくなっていって。当時はトイレの前にロッカーがあってそこに捕まって揺れに耐えていたら、目の前にメディアテークのスタッフの方が居て、二人でしばらく無言で見つめ合っていたんです。当時はその人が誰か知らなかったんですが、実はのちに僕が制作した映画館の記録集『セントラル劇場でみた一本の映画』をデザインしてくれた仙台在住のデザイナー・伊藤裕さんだったという出会いもあり…。

その後、知人と一緒にメディアテークが企画していた沿岸部のボランティアバスツアーに参加したんですが、そこで出会ったのが「今日、活動を記録します。濱口です」と言いながらカメラを持って乗り込んで来た映画監督の濱口竜介さんでした。濱口さんの名前は東京で映像の仕事をしていた頃から知っていたのですが、こうして仙台で出会うことになるとは思いませんでした。当時、2年くらい仙台にいたのかな。泊まるとこがないと言ってたので、うちに泊めてあげたり(笑)。その後、メディアテークが再開する際に映像制作ができる人を探していて、たまたまボランティアに参加していた縁で声を掛けてもらい、継続的に携わるようになりました。

ー 振り返ると、震災当時、仙台に帰ってきていたということがターニングポイントになっているように思いました。

あのとき仙台にいなかったら、つくるものも考え方も今とは全く違っていたと思います。市街地に住んでいたので沿岸部に比べると被害が大きかったわけではないんですが、でもそうした場所のすぐそばにいたので。当時は濱口さんをはじめ、県外からたくさんの人が仙台にやって来て記録活動をしていました。その後、濱口さんと酒井耕さんが監督された『東北記録映画三部作』の制作を手伝ったり、メディアテーク内に震災からの復旧・復興を記録し発信する「3がつ11にちをわすれないためにセンター(以下、わすれン!)」ができ、そうした活動を手伝うなかで記録映像の仕事を始めました。なので、仙台でこうした仕事がやりたかったというよりは、震災が起き、この場所で記録する必要性が出てきたところに映像制作の経験がつながって今に至っています。

ー さまざまな出会いのなかから、記録という行為について考えていくようになったんですね。

そうですね。そのなかでも、民話採訪者の小野和子さんの存在はとても大きかったんじゃないかと思います。小野さんは「みやぎ民話の会」を設立して、40年以上、東北各地で様々な民話を訪ねていらっしゃる方で、最近『あいたくてききたくて旅にでる』という本を出版されました。小野さんは濱口竜介さんの映画『うたうひと』にも「聞き手」として出演されているのですが、僕はその撮影ではじめてお会いしました。震災後、ここで起こったことを記録しようとしたとき、「聞く」という行為についてたくさん考えなければいけなかったんですね。「聞くこと」が一体どういうことなのかと考えたとき、小野さんが40年間続けられてきたことがひとつの道標になりました。先ほどの濱口さんもそうだし、あるいはアーティストの瀬尾夏美さんや小森はるかさん、写真家の志賀理江子さんなど、活動内容はみんな異なるけれど、民話を訪ね聞く小野さんのすがたがそれぞれの表現のベースにあるように思います。

ー 福原さんご自身も小野さんとの出会いによって、表現や記録への考え方に変化があったんですね。

元々、フィクションや劇映画がやりたくて上京したのでどちらかというと自己表現として作品をつくることが多かったんですが、だんだんとそうした制作に行き詰まりを感じていました。でも、震災後に小野さんと出会うなかで、誰かの話を聞き、それを受け止めてかたちにするという表現方法もあるんだということに気づいたんです。「聞く」ことは物事をただ受け止めるだけでなく、実はとても創造的な行為なんだというもうひとつの側面が、震災を記録する活動を続けるなかで知ることができた。記録するという行為も表現のひとつであるということを、小野さんらとの活動を通じて教えてもらったんです。

ー 先日、メディアテークでもバリアフリー上映* が行われましたが、撮影・編集を担当されたドキュメンタリー映画『飯舘村に帰る』にはどのようなきっかけで携わることになったのですか。

一緒に制作した「みやぎ民話の会」の島津信子さんはメディアテークが主催する『民話 声の図書室』のプロジェクトを小野和子さんと一緒にやっていたメンバーで、映像をつくりたいと声を掛けてもらったのがきっかけです。島津さんは丸森町に住んでいるんですが、震災後は飯舘村などの仮設住宅に支援に通っていました。その後、避難指示が解除になり村に戻る人たちが少しずつ増えたと同時に、それまで仮設住宅内で会えていた人たちがバラバラになってしまったという話を聞いて、これを機会に改めて話を聞き記録したいと思ったそうなんです。せっかくなので村に帰った人たちに話を聞いて映像にし、みんなで観れるようにしたいねということで、一緒に「わすれン!」の参加者になり作品をつくることになりました。

*バリアフリー上映…せんだいメディアテークが、だれでも気軽に映画を楽しめるようにと開館当初より開催してきた、音声解説・日本語字幕・託児サービス付きの上映会。音声解説と日本語字幕は、メディアテークで活動するボランティアにより制作される。

『飯舘村に帰る』(2019)

これは「みやぎ民話の会」ならではだと思うんですが、震災を経験してどうだったか、どんな被害があってどれだけ辛かったかという話だけではなく、たとえば、嫁入りに来たときの村のようすや大正生まれのおばあさんが二十歳ぐらいのときに家出したときのエピソードなど、お話を伺うなかでその人自身にまつわる話がたくさん出てきたんですね。「民話の会」の人たちは単に民話だけを聞くのではなく、「語りの背景にあるもの」を大事に聞くんです。この人はどういう生き方をしてきたか、どういう環境の中で育ってきたか。誰に話を聞いて、そのときどんなことをしながら聞いたのかなど。だから、今回は震災の記録として撮影するけれど、そうした部分も伝えていきたい。現地で話を聞いて撮影するなかで、本来ならカットするかもしれないそうした部分をむしろメインに編集しようと決めました。

ー 震災の記録でありながら、それらを語る人の背景にある出来事やその人がそれまで生きてきた時間というものを捉えてらっしゃったのが印象的でした。

被災地や被災者というレッテルを貼ってしまうと、そこからしか人や土地を見れないということがどうしてもあると思うんです。でもそうではなく、この場所にこの人がいるのが飯舘村なんだと、その人自身から土地を捉えていけるように、あえて震災と関係のないことも聞きました。震災がなかったら別に被災地や被災者でもなかったわけですから。

ー 何かを記録されるとき、カメラという存在についてどのように捉えていらっしゃいますか。

自分が意図する以上に色々映ってしまうというか、その人の本性を見抜いてしまう力もカメラにはあるんですね。ただ、カメラの前でしか語れないこともやはりある。たとえば『飯舘村に帰る』では、最後に登場した男性が原発に対し「こんな消すこともできないようなものを何も考えずにつくる奴はバカだ」ということをおっしゃるんですが、ああいう話は島津さんが普段お話を聞きに行っていたときには出てこなかったそうです。一見自然に話されているんですが、やはりカメラがなければ出なかった言葉だったのだろうと。

カメラの前だと話せることがあり、カメラの前だと成れる自分があり、カメラは「自分を変える」存在でもあると思います。そして撮る側である僕もまた、カメラによって変わります。撮る側も撮られる側も変えてしまうカメラは時に暴力的な装置ではあるけれども、それゆえ記録という行為を飛躍させるものでもある。こうやれば安全だという方法論はないし、危険を取り除いたら同時にその力自体が失われてしまうかもしれない。カメラの持つふたつの側面は結局は同じもの、常に隣り合うものだと思うので、それを意識しながら記録することを続けていきたいと思っています。

取材日:令和2年12月3日

取材・構成:鈴木 淑子
撮影:小泉 俊幸
取材協力:曲線

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福原悠介(ふくはら・ゆうすけ)

1983年宮城県仙台市生まれ。映像作家。アートプロジェクトや民話語りなど、地域の文化を映像で記録するほか、「対話」をテーマとしたワークショップをおこなう。主な監督作に『家にあるひと』(2019)、『飯舘村に帰る』(2019)など。また、小森はるか監督『空に聞く』(2018)、小森はるか+瀬尾夏美の『二重のまち/交代地のうたを編む』(2019)などに参加。記録集「セントラル劇場でみた一本の映画」企画・編集。

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