クリエイターインタビュー|小野 健さん(中編)
株式会社ASAのプロデューサーである小野建さん。専門学校を卒業後、東京でシステムエンジニアとして働き、2011年に地元仙台に戻ってきました。仙台に戻ってきてから初めてデザイナーとの協働を経験したというIT畑の小野さんにお話を伺いました。
―SEとしては何年勤められていたのですか。
21歳から31歳までの10年間です。東京で10年間働きました。
―どうして辞めたのですか。
CAC情報サービスから別の会社に変わったんですよ。要は大手企業の傘下になったんですけど、個人で登録して派遣されるのと、システム的に変わんなくなってきたんです。これじゃ会社に所属している意味がないというか。これなら、個人で登録して派遣されるのと同じだから、ちょっと面白くないなと思って。という単純な理由ですね。
―それで、仙台に戻ってきたのですか?
はい。それまでも、お盆とか正月とか仙台に帰ってきていたんですけど、「仙台いいなあ」と思って。東京だと毎日毎日、混んだ電車に乗って、痴漢に間違われないように、(手を挙げて)ずっとこうしてる。まず、朝に一番エネルギーをとられますからね。満員電車に乗るっていう。なので、ああ、仙台のこんな感じがいいなあと思って。
―仙台に戻ってきたときは、転職先は決まっていたのですか。
自分はあんまり考えないタイプなので、決めないで来たんです。ずるずるその会社にいるのも嫌だったので、「辞めます」と言って辞めて。でも、引っ越しの日が2011年の3月12日だったんですよ。
―えっ、3月12日?
はい。なので、引っ越しする前日に地震が起きて。北海道の引っ越し業者だったので、住まいには来たんです。で、荷物だけ持っていってもらったんですけど、自分は移動できないので、1カ月ぐらいは友達の家で様子を見ていて。最初に高速バスが開通したので、それに乗って5月くらいに仙台に来ました。
なので、東京で計画停電とかも体験しています。冷蔵庫がめちゃめちゃになったの見て、「こういうことか」と。
―それでは、仙台に来てからしばらく仕事はせず…という感じだったのですか。
はい。まず、「会社を今探してもしょうがないな」というのがあって、とりあえず失業手当をもらうのにハローワークに月2回通っていて。で、月2回通ったときだけ贅沢しようと思って、居酒屋で飲んでたんです。そこの店長と仲良くなって、「健さん、仕事どう?」って聞かれて「いや、ないっすねえ」みたいな話をしてたら、「うちのホームページをやってる会社、紹介しようか?」と言われて、それが今の会社(当時は株式会社d.m.p)なんですね。
しかも、面接に行ったら、専門学校の同級生がいて。「おっ」みたいな感じで、「じゃ、決まりだね」と言われて(笑)。
それも、仙台市さんの復興の助成金か何かの事業で入ったんですよ。なので、仙台市さんのアプリ開発とか担当していましたよ。子ども向け知育アプリで、八木山動物園の動物たちをネイティブの発音で紹介する「えいごでおぼえる八木山動物公園」というものだったんですけど。
あとは、東西線のアプリ「SEE THE LIGHT」、「LIGHT & SOND」(*)とかつくってました。
(*)仙台市地下鉄東西線開通に向け、仙台市ゆかりのアーティストが工事中の地下鉄構内で演奏し、音楽と美しい映像で魅せたプロモーションアプリ。
―SEだった頃とアプリ開発するのとは、どのくらい違うものですか。
全然違いますね。システムって、ほとんど画面がないんですよ。データを抽出するだけで、ビジュアル化されないんです。なので、ずっと文字たたいて、プログラムができて、またバーッとたたいて「あ、できた、できた」って。それ、全部文字なんですよ。そんな仕事しかしていなかったところから、デザインとか、写真とかが入ってきたので、全く違いましたね。あと、アプリって実際人の手に触れるものじゃないですか。「ああ、人に使ってもらってる」みたいな感動がありますよね。
―そうすると、今まで自分一人でプログラミングしてきたのが、デザイナーとかミュージシャンとか、いろんな人との共同作業になってきた。
そうなんです。初めてデザイナーっていう人と会いましたよ。
―その頃の仕事で、印象に残っているものはありますか。
やっぱり先ほど話に上がった「SEE THE LIGHT」という東西線のフォトギャラリーアプリは、デザイナーさんと話す、コンタクトを取ってというところと、あと撮影っていう仕事があって、「わあ、すごい」って思いました。楽しかったんですよ。
―小野さんは何を担当したのですか。
開発側のディレクションですね。案件のディレクションではなくて。
たくさんの人がかかわって、完成して。クリエイティブってこういうことかと、一番わかりやすかったですね。
―今までやりとりしたことないデザイナーさんとかクリエイターさんと関わるようになって、つくりたいものに対して、いろいろな人と話し合わなきゃいけないじゃないですか。それについてはどう思いましたか。
楽しかったですね。難しかったですけど。性格もあるんでしょうね。僕、ポジティブにしか考えないタイプなので。「すみません。デザインって、まず何すればいいですか?」というところからでしたけど。イラレとか、フォトショップという言葉も知らなかったので。
―そんな感じだったのですか?
ええ。逆にC言語とか、プログラムの言語はいっぱい知っていたんですけど、イラレって何だろうと。フォトショップ? ああ、なるほどね…みたいな感じでした。
―今はそういうソフトも扱えるようになりましたか。
ググりながら使ってます(笑)。
―では、これまですごい壁に当たって苦労した…みたいなことはないですか。
いっぱいありますよ。SE時代はインターネットがなかったので、まず本を買って勉強するところからなんですよ。
自分の場合は派遣で、毎回仕事が違うので、「まず1週間以内にこれ覚えて」「できなかったらクビ」と言われて(笑)、一生懸命用語を覚えて。まあ、クビっていうのは嘘なんですけど、向こうとしても「1週間でそのくらいやってもらわないと困る」という話で。なので、毎回壁でした。
―でも、その知識のレイヤーが、やっぱり今の小野さんをつくってるわけですよね。
多分精神的にはタフですね。「やばい!」っていうのは、もう何百回(笑)。
―そこを乗り越える、すごいですね。前向きに乗り越えられるのは、素晴らしいですね。
今の仕事に就いてからも、基本的に壁しかないですよね(笑)。場合によっては10ぐらいの案件を同時に動かしたりもしますし。でも、越えられない壁っていうのはないんでしょうね。何とかやっているので。でも、壁に囲まれないようにだけはしてる感じですね。
―ちゃんとどこか道はつくっておけるように。
そうですね。相談いただく話も毎回違うじゃないですか。「やったことないぞ」みたいなところから始まるので、即壁ですよね(笑)。どういうエンジニアに、どういう内容を言えばいいんだろうと。どういうリーディングすればいいんだろうというところから始めて、わからないことがあったら聞いて、一歩一歩です。
小野健
秋田県北秋田市鷹巣町出身、仙台市在住。
株式会社ASA DIGITAL開発ソリューション部門
[経歴]
東北電子計算機専門学校でプログラミングを学び、東京でプログラマー/システムエンジニアを10年経験。その後、宮城県にUターン転職。
2012年dmp入社。
2016年10月にASA DIGITALに社名変更。