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知をひらく② 前編|鈴木杏奈(東北大学 流体科学研究所 准教授)

特集「知をひらく」は、仙台市を中心に活躍する研究者の方々から「クリエイティブとは何か」について探っていくコーナーです。研究者たちの素朴に問うこと、調べること、対話し考えること、成果をまとめること、といった学びの基本と豊かさにこそ、クリエイターとして活動するヒントがたくさんあるはず。それぞれの研究者たちが大切にする、クリエイティビティの源をお伝えします。

私の使命は「自然」と「社会」の橋渡しをすることです

現在は東北大学の流体科学研究所で准教授を務め、持続可能な地熱エネルギーを私たちの社会に活かせるよう日々研究に勤しむ鈴木杏奈さん。地熱エネルギーの研究者になるきっかけには、どのような経験が影響しているのでしょうか。華々しい経歴の背景にある、海外での貴重な経験もお聞きしました。

― 現在の研究内容を教えてください。

私は地熱エネルギーを持続的に利用していくための研究をしています。地熱発電とは、地面の下にある熱水や蒸気でタービンを回して発電するものを言います。地熱発電の元になる地下の熱水・蒸気の多くは、雨が降って長い時間をかけて温まったものなので、資源が無限にあるわけではありません。そこで私は節電に使い終わった水を人工的にまた地下に戻してあげて、またそれを地下の熱で温めて取り出すという循環サイクルを狙っています。ただ、戻す水が発電所に近すぎると地下を冷やす恐れがあるし、逆に遠すぎると意味がなくなってしまうので、水を戻すのに程よい地点を探さなきゃいけない。だから私の研究では「程よい地点で、どのくらいの温度で地中に水を戻せば良いのか」という設計を試みています。この設計の問題で考えないといけないのが、地中の水は川のように流れているんじゃなくて、実はとても複雑な流れをしていることです。

― そうなんですね。たとえば、どんな複雑な流れをしているのでしょうか?

秋田県にある「小安峡」を思い浮かべてもらうと分かりやすいのですが、すごく複雑な岩の割れ目から勢いよくお湯が飛び出して見えますよね。地中にはそういう複雑な流れがあって、それを理解しないとどこに井戸を掘ったら良いのかなどがデザインできない。その構図や流れを知るためにシミュレーションしたり、3Dプリンターで模擬岩石を作って流れの実験をしたりして複雑なものの中の流れを理解しています。また、私の研究には複雑な地下の水の流れを表すために「トポロジー」という数学も取り入れていて、複雑な構造の中でも流れに関わる重要な情報だけを抽出したりしています。私は東日本大震災を経験しているのですが、人間の力を超えてくるような自然と人間が共に生きていくための社会のあり方を探らなきゃいけないと思っています。生きるためには自然界からエネルギーを取り出さないといけない。エネルギーを通して自然と社会を橋渡ししたいと考えています。私が常に研究で意識しているのは、限りある自然からエネルギーを取り出して社会でどう活かすべきかということ。そのデザインを、私の研究では目指しているところです。

秋田県にある「小安峡」の様子。

― 自然エネルギーに興味を持ち始めたのはいつですか?

私の生まれは宮城県大郷町で、最寄りの信号機は3km先というような田舎なところで育ちました。自然が好きな家族の影響で小さい頃から山登りやスキーをたくさんしていたので、自然と触れることが多かった。元々、科目として数学・技術・美術が好きで、デザインや建築などに興味があったのですが、人間が好き勝手に山を切り拓いている姿などを見た時に「人間が好き放題作っていいのかな」と考えるようになったんです。そこで私は、人間が生きるのに本当に必要なものを生み出すことが大事なのではと思い、エレルギー関連に興味を持ち始めました。高校時代もずっとエネルギーと工学に興味があって、どの大学へ進学するか決めるときに地熱エネルギーに興味を持ち、それを学べる東北大学機械系に入学しました。

― 大学に入学するときから、研究者になると決めていたのでしょうか?

その頃は決してアカデミックに進むとは考えていませんでした。エネルギー問題を解決するために何かしたいという想いはあったのでそのような分野の就職活動もしましたね。でも、技術だけでなく、広く社会全体の意識が変わっていかないと環境問題やエネルギー問題は解決しないと思い、草の根的な教育もできる大学教員の道に進んで今に至ります。

― 先ほど東日本大震災を経験したとのお話がありましたが、もしよろしければ当時の経験を教えていただけますか?

震災が起きたときは、私はちょうど修士課程が終わって博士課程に進む間の時期でした。当時父親が女川町と震源地の間にある出島に単身赴任をしていて、最終的に父親は無事だったんですけど、震災直後に連絡が取れなくなったりして、震災が他人事ではありませんでした。震災から1~2週間経って、「動ける若者に助けてほしい」という被災地の声や「動きたい」という大学生の声が集まってきていたことから、自分がリーダーとなって、大学で学生主体の震災関連のボランティア団体を立ち上げたんです。その団体には1000人くらい登録してくれたので、私自身が現地に行って泥かきなどをするというよりは、被災地でやってほしいボランティアの内容を整理したり、ボランティアを募集して現地ごとに人数を割り振ってバスの手配をしたり、広報やメディア対応をしたりするボランティアの本部の組織づくりから、ボランティアのシステムづくりをになっていました。ボランティア団体を自分たちで立ち上げたことで東北地域の色々な課題や可能性も見えてきて、東北を盛り上げたいと思うようになったのは収穫の一つでした。

― 震災当時、技術者として抱える葛藤は大きかったのではないでしょうか?

福島の原発事故が起きたときは、工学の研究をしている人間として責任をすごく感じました。工学が発展することで人に快適なものを提供できると思って研究してきたのに、必ずしもそうはならないことを知って、技術者として社会に責任を感じたんです。事故が起きる前から、原発に頼らないエネルギーを考えていくべきだという意識は高かったです。ただ、エネルギー関連の研究に携わっていると、どれが正解なのかは言い難い面があります。現代で使っている電力は地熱だけで賄えるものではないですし、地熱のデメリットだって見えてきます。私は必ずしも原発をなくせという立場ではなくて、もっと色々なエネルギーのあり方を考えておくべきだと感じています。原発事故を経て世の中のエネルギーに対する意識が変わってきたので、みんなでエネルギーについて考える場を作っていくことが大事かな、と思います。

― 現在に至るまで、海外での生活も経験されたようですね。世界中から全く異なる価値観が集まっていると思うのですが、海外生活が役に立ったことはありますか?

私は田舎出身ということもあって、地元から出たい、世界に飛び出したいという欲求はずっと持っていました。大学3年生のときに北欧研修という大学のプログラムに友達と参加して、海外の色々な大学を見たり、他の参加者たちが留学を本気で考えているのを聞いて「いつかは留学したいと思っていたけれど、今がチャンスなのかもしれない!」と、勢いで「IAESTE」という理系の海外インターンを斡旋している団体に登録したんです。私は「地熱を研究します」と書いたことからインターン先に選ばれたのがアイスランドでした。そうして大学4年生でアイスランドに滞在したのですが、異国の地で気づいたのは、自分が周りからどう見られるかをかなり気にして生きてきたこと。アイスランドって人口が30万人くらいの小さな国なんですけど、みんな自由に生きているんです。たとえば、口の周りにソフトクリームが付いていてもあまり気にしない、みたいな(笑)。あとは、ロウソクで生活しているから電気も全然使わない生活をしていました。アイスランドの暮らしから、自分達がかっこいいと思うものが世界共通ではないのがよく分かりました。また、ヨーロッパ周遊もしたのですが、そこで日本車が走っているのを見て、日本人のこれまでの頑張りも感じられたんです。海外には日本にいたら気付けないものに気づくチャンスがたくさんあった。考え方や態度はすごく変わったと思います。

スタンフォード大学で研究員をしていた頃の鈴木さん。

― スタンフォード大学の研究員としてアメリカでも生活をされていたそうですが、その時の海外生活はどうでしたか?

アメリカ生活では、正直それほど文化の違いは感じられませんでした。もちろん文化の違いはあるけれど、自分の予想できる範囲内。アイスランドのときほどの衝撃は強くなかったですね。むしろ、世界中からすごい人がたくさん集まってくるスタンフォード大学や大学のあるシリコンバレーの環境に多くの刺激をもらいました。初めは、私の周りにいる日本人も高学歴だったので、そういう人たちから自分がどう思われるんだろうと心配で、自分に自信が持てなくて怖かった。でも、スタンフォード大学で過ごすうちに、私がすごいと思っているような人たちもめちゃくちゃ努力をしてて、普通にそこでご飯を食べて寝て生きてて、自分とあまり変わらない「人間」だと気づきました。その気づきのおかげで、自分も頑張ればいいんだって思えるようになりました。

― なぜ海外から東北大学に戻って研究を始めたのでしょうか?

スタンフォード大学にいるときに、海外で活躍する日本人が少なく、このままだったら世界の中で日本の存在感がなくなっちゃうかもしれないという危機感を感じていました。私自身が世界で戦って海外で活躍できるようになりたかったんです。一方で、かなり背伸びをして生きていたのも事実で毎日プレッシャーを感じながら1人で泣くことも多かったんです。ポスドクの間は、半年先にどこにいるかわからない不安定な中で、研究をしながら就職活動を続けていて、アメリカでも日本でもいいから次を見つけようと思っていたところ、先に東北大学のポジションが決まったからたまたま日本に帰ってきました。帰ってきたら、震災のボランティア団体での経験から湧きあがった「東北を熱くしたい」という想いに再び火がつきました。震災当時は学生ボランティアという立場だったため力がなくてできなかったことが、今は大人になって力を蓄えられてきているので少しでも東北のためになりたいという想いで色々な活動をしています。

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鈴木 杏奈(すずき・あんな)

宮城県大郷町生まれ。2009年に東北大学工学部機械知能・航空工学科を卒業、2014年東北大学大学院環境科学研究科で博士号を取得。その後、スタンフォード大学エネルギー資源工学科、東京大学大学院数理科学研究科でポスドクとして、持続的な地熱エネルギー開発のための流れのデザインに関する研究に従事。2016年11月より東北大学流体科学研究所に所属、米スタンフォード大学客員研究員。2014年日本地熱学会研究奨励賞。2021年11月より准教授。

研究の傍ら、2011年3月に東北大学地域復興プロジェクト”HARU”を立ち上げ。2018年には温泉地域を拠点に、ワクワクを共有する「仲間」や「場」をつくることを目的とした活動「Waku2 as life(ワクワクアズライフ)」を開始。異分野異業種の人々や地元住民とともに、リモートワーク合宿やサマーキャンプなど様々な取り組みを行っている。

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