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クリエイターインタビュー前編|菅原さやか(グラフィックデザイナー)

地域それぞれの良いところをもっと広めて、地元に貢献していきたい

株式会社コミューナに所属する菅原さやかさんは、地域に根ざしたグラフィックデザイナーとして活躍している。東京の印刷・出版会社でデザイナーとアートディレクターを経験し、2年ほど前に地元である宮城県に戻ってきた。彼女が東京のデザイン仕事を辞め、宮城・仙台を拠点に選んだのはどのような理由があるのだろうか。前編では菅原さんがグラフィックデザインに出合った経緯や、デザインを仕事にするまでの背景を伺った。

ー現在、菅原さんは株式会社コミューナでグラフィックデザインを担当されていますが、具体的にどのようなお仕事をされているのでしょうか?

さまざまな分野・業種の紙媒体のデザインを手掛けています。宮城にUターンしてもうすぐ3年目を迎えるのですが、現在担当する案件のほとんどが県内の会社です。これまで手掛けたのは、海産物などを取り扱う会社さんの商品ロゴやラベル、銅製品ブランドのツール、また復興・伝承関連の冊子など、地域に密着した仕事が多いですね。あと、弊社の事業は「翻訳」「デザイン」「マーケティング」の3軸がメインなので、海外に向けたインバウンドのツールや広報物にも携わらせていただいています。 

ー菅原さんのご出身は仙台市内ですか?

出身は仙台市で、中学校を卒業してから仙台高等専門学校(以下、仙台高専)に進学しました。今はもうなくなってしまった学科なのですが、情報デザイン学科でデザインの勉強をしていました。 

ー中学生のときにはすでに「グラフィックデザインの仕事をしよう」と決意されていたんですね。当時はどのようにしてグラフィックデザインの仕事があることを知ったのでしょうか?

仙台駅の地下通路を通ると、壁側には駅貼ポスターがありますよね。当時から月1で大分焼酎「iichiko」の広告が掲載されていたんですけど、それが好きで毎月チェックしに行ってました。iichikoの広告が出る大体の時期を覚えて、掲載されるタイミングで広告だけを目当てに通っていました(笑)。何度も通っているうちに、「かっこいいな」と思い始めたんです。グラフィックデザインの仕事を知ったのはこのiichikoの広告がきっかけでした。 

※大分焼酎「iichiko」:大分県宇佐市を拠点に酒造メーカー「三和酒類株式会社」が手掛ける麦焼酎。iichikoシリーズのテレビCMや広告などのプロモーションは、すべてアートディレクター・河北秀也氏が担当している。 
https://www.iichiko.co.jp/

ーどのようなところに惹かれたのか覚えていますか?

海沿いや草原、森の中、川沿いなど、自然のなかに商品を美しく溶け込ませているところに惹かれました。特に強いメッセージやビジュアルが発信されているわけではないのに、美しい風景が商品であるお酒にマッチしていてとても自然に表現されている。本当に綺麗だなと思いました。 

ー他に惹かれる作品はありましたか?

父が写真を撮るのが好きだったこともあって、写真からの影響も受けました。CMやプロモーションビデオなどの映像作品も好きで、映像系のクリエイターを目指していた時期もあったんです。でも仙台高専への進学をきっかけにグラフィックデザイン1本に絞りました。 

ー仙台高等専門学校に進学し、本格的にグラフィックデザインと向き合ってみてどのように感じましたか?

まず「デザイン」というものを理解することが、とても大変でした。1年生のときからデザインの授業があったのですが、初めに「アートとデザインは違う」と教えられました。入学した当初、私は「好き」という気持ちだけで自分の好きなように表現できるものと思い込んでいたんですが、「デザインは自由に創作することではない」ということを知り、大きな壁を感じたのを覚えています。16〜17歳でどのように情報を整理したらよいのかも全く分からなかったですし、技術も全く追い付かないので理解するのにも時間がかかりました。「デザイン」については社会人になった現在もいまも考え続けています。

ー自己表現をしたいと思っていた10代で、デザインに対する考え方を切り替えなければならないのは、確かに大変そうですね。

10代の頃は自尊心が強いから生意気でした。学生当時は「そんなこと言われても知らないし」という感じで好き勝手に取り組んでいたのですが(笑)、ようやくデザインが何かを本気で考え始めたのは社会人になってからです。グラフィックデザインを仕事にできた新入社員の頃に、上司から「誰のためにつくっているの?」と疑問を投げかけられて。「お金をいただいて作るということは、どういうものなのか」というのを真剣に考えました。お客様の思いや考えを汲み取り、それを形にしなくちゃいけないんだということを学びました。 

ー仙台高等専門学校の専攻科に進んだ2年間は主に何を学ばれていたんですか?

専攻科では建築・デザイン系と、機械・電気・材料系の2コースに分かれていて、あとは、高専自体が工学寄りの学校なので、コース入り混じったチームで何かしらプロダクトや仕組みを作ったりするんですが、そこまでのプロセスや考え方を重点的に学びました。 

ーどのような会社に就職されたんですか?

紙ものやWEBのデザインと、印刷を総合的に行なっている東京のデザイン・印刷会社に就職しました。その会社では6年ほど働いて、デザイナーとディレクターを経験しています。東京の会社で働いてはいましたが、いずれは地元の宮城に戻って働きたい願望が強かったです。 

ー「地元に戻る」という意識が強かったのはなぜですか?

鳴子温泉が好きでよく訪れていたのですが、鳴子温泉は泉質も良く、情緒もあるような温泉街なのにそこまで賑わっていないことが多くて、「もったいない」と感じていました。鳴子温泉でなくても、みなさんの心の中にはいいなと思う自然や風景ってたくさんあると思います。些細なものでも、もっと多くの人に知ってもらいたいという考えが強くなっていきました。そんなことを考えているうちに、東日本大震災が起き、震災のとき「自分は何もできなかった」という気持ちを抱えたまま東京に行ってしまったので、どうしても地元に関わる仕事をしたかった。東京で経験を積んで、いずれ宮城でデザインの仕事をする、という想いが強かったです。 

 

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