Article 記事

オイカワデニム(前編) 気仙沼でジーンズを作り続けて生まれたオリジナル

気仙沼で呉服商を営んでいた初代がファッション業界の動きを先取りし、ジーンズ工場の稼働を始めた有限会社オイカワデニム。読み通りジーンズはその後ファッションの中心となり、工場フル稼働の時期が続いたが、バブル崩壊を経て生産拠点が一気に海外へシフト。苦境の中、ものづくりを磨き、提案力を高め、都内のクリエイターと共に「リメークジーンズ」を生み出した。再び業績がピークを迎えたところで現社長の及川洋氏はオリジナル商品の開発に乗り出す。

気仙沼でジーンズを作り続けて生まれたオリジナル

−気仙沼の地にジーンズメーカーが生まれた経緯を教えてください。

及川洋(以下、及川) オイカワデニムは1981(昭和56)年に父が創業しました。もともと呉服商を気仙沼で営んでいまして、いろいろなところに販売に行って見聞きする中で、これからデニムがファッションになり、その市場が大きくなることを見込んで参入したようです。けっこう大胆ですよね。

父は僕が学生の頃に病気で他界しまして、母が2代目となり、僕が3代目を継ぎました。やっぱり会社を続けていますと山あり谷ありで、特に僕がこの業界に入った頃は為替も良く、商社からのOEMだけでグループ5工場合わせて1日の生産本数が6000本もありました。ほとんどがエドウィンの商品です。

それがずっと続いていたんですけど、1980年代後半から90年代に海外生産の波が訪れます。80年代後半、中国はまだ日本人の賃金の30分の1、40分の1という時代でしたから、あっという間に価格競争に負けて仕事がなくなりました。

気仙沼市本吉町の高台にあるオイカワデニムの工場と社屋

−6000本がだんだんと減っていったんですか。

及川 だんだんではなく、3日前に告げられて一気になくなりました。

−それは…大変でしたね。

及川 何の準備もできませんでした。それまで月曜から土曜まで日々6000本を重ね、商談は年1回、「今年はこれを縫ってください」で終わり。それがずっと続くと思っていましたから、営業も企画提案も何もせずにいたため、企業力が退化していたんです。すっかり筋肉が落ちてしまっていたので、営業するようになった当初は大変でした。でも、痩せないと気付けないことも多いですよね。

明日どころか今日する仕事もない時期が続きました。それでも従業員は当然毎日出勤します。仕事はありませんでしたが生地はあり、糸もあり、資材もミシンもあるので、その間は従業員に自分たちの服を作ってもらうことをしました。ラインで作ればあっという間にできますが、型紙を置いて生地を裁断するところから最後の仕上げまで、全部の工程を1人でやってみてくださいと。

オイカワデニムの工場内。絶え間なく稼働するラインが止まった時期もあった

−その狙いは。

及川 まあ、時間がたくさんあったからなんですが(笑)、自分や身内のものを作るとなりますと、顔の見えない人のものを作るのに比べて、少なからず丁寧に作ろうという気持ちが働くわけじゃないですか。その頃まだ会社の体力は十分にありましたので、仕事が入ってくるまでものづくりの部分に磨きをかけようと。結果的にそれが後で生きてくることになります。

そうこうしているうちに、メード・イン・ジャパンにこだわっているお客さまや、当時日本のファッションをけん引していた裏原(裏原宿)の人たちと一緒に、少しずつですけどもいろいろなことをやらせていただけるようになりました。

−どうやって仕事を増やしていったんですか。

及川 仕事の取引には本来設計図がありますよね。今回の商品はこういう形で、こういう生地と糸、付属品を使って、本数がこのくらい、加工賃がこれくらい、それをいついつまでに納めてくださいと。その中で自分たちならこういうことができると、ほかに対する優位性をお客さまに示していくのが通常の仕事のやり方です。しかし当時僕がやっていた営業は、企画も何もまったくない状態から、取引先のデザイナーさんとやり取りしながら、お互いの頭の中で構築していくというものでした。

−どのように形にしていくんでしょうか。

及川 まずテーマを決めます。例えば「沖縄」がテーマだとして、沖縄をイメージして企画を詰めていく。その中でお客さまが困っていることに対してやり方や素材を提案することで具体的な形が少しずつ見えてきて、それを繰り返して設計図がまとまった頃にはお互いの頭の中でほぼ完成している状態です。

特に若いデザイナーさんなど、センスは抜群でも技術や経験が不足していて、自分が考えているものをどうしたら形にできるか分からない。それに対してこういうやり方があると提案していくんです。

成功事例が一つできると、あれはどこがやったのかと皆さんが調べてくれて、次につながっていきました。例えば90年代、ビンテージレプリカなど古着ブームの中で「リメークジーンズ」が流行しましたが、あれを最初に日本で商品化したのが弊社なんです。

当時、営業として裏原のクリエイターらと商品開発に取り組んだ及川洋社長

−すごいことですね。

及川 ダメージ加工が流行するだろうと裏原の人たちと考えていく中で、それを修理することで古着感を出すというアイデアが生まれました。いまでこそ普通に街なかで見ますけども、「その頃はそんなもの絶対売れない」と、いろんな人に言われましたよ。

そのリメークジーンズを柱にオイカワデニムは会社としてまたピークを迎えていきますが、その時、立ち止まって考えたんです。お客さまと順調にお取引させていただいていますし、大事にしてもらっているんですけれども、やっぱり「人の釜の飯」。それに、「オイカワデニムとは何か」と問われたときに、これがオイカワデニムなんだと示せるものを作りたいという思いもありました。

もう一つはメード・イン・ジャパンへの思いです。皆さんがいま着ている服が出来上がるまでに、綿を買って紡績して機(はた)を織って縫製をして、ジーンズなら洗いをして、仕上げをして店頭に並びますが、全て日本人の手で行っているものづくりは、いま市場の数%しかありません。世界的に有名なジーンズの産地、岡山県でさえも支えているのは海外研修生。いまの日本の経済状況で、企業は人を育てられない環境にあります。

そんな中でメード・イン・ジャパンにこだわって、人が育つ環境をつくるのもわれわれの仕事ではないかと思い、2005年にオリジナルブランドを立ち上げました。

2005年に立ち上げたオリジナルブランド「STUDIO ZERO」のジーンズ

−ほかの取引を考えると複雑ではないかと思うのですが。

及川 オリジナルを始めるということは、いままで良好な関係だった取引先のライバルになること。下手をすれば取引がなくなってしまいますので、慎重に可能性を探ろうと、まずは東京にスタジオゼロという会社を作りました。

見た目はOEMの形態にしてスタジオゼロの商品を気仙沼のオイカワデニムで製造したんですが、問題は販売。ここのお店に置いてもらいたいけども、あのブランドとぶつかってしまう、ということの連続で、ものはあるのに営業ができなかったんです。

そんな時、都内のお店でお酒を飲んでいたら、外国人に片言の日本語で「お前がはいているパンツはどこのブランドだ」と話し掛けられました。「俺が作ったんだ」と自慢気に話して、名刺も渡さずにその場は別れたんですけども、その数カ月後にメールが届きます。「渋谷で会ったのを覚えているか。展示会のブースを用意するから来い」という内容でした。

取材・構成:菊地 正宏
撮影:松橋 隆樹

 

前編 > 中編 > 後編

有限会社オイカワデニム

〒988-0325 宮城県気仙沼市本吉町蔵内83-1
TEL:0226-42-3911
mail:o-denim@world.ocn.ne.jp

デニム衣類の企画・製造・販売を手掛け、オリジナルブランド「STUDIO ZERO」「OIKAWA DENIM」「SHIRO 0819」を展開。「本物のデニムは永きにわたり着用し続けることによって初めて完成される」をモットーに、短いサイクルで変わってしまう流行を意識したデニム作りではなく、長いスパンで着用できることを考慮し、クオリティーにおいても妥協せずデニム作りに取り組む。アーティストやスポーツ選手など、著名人にも製品のファンは多い。

ページトップへ

Search 検索