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知をひらく③ 前編|リーペレス・ファビオ(元 東北大学 大学院文学研究科 助教)

特集「知をひらく」は、仙台市を中心に活躍する研究者の方々から「クリエイティブとは何か」について探っていくコーナーです。研究者たちの素朴に問うこと、調べること、対話し考えること、成果をまとめること、といった学びの基本と豊かさにこそ、クリエイターとして活動するヒントがたくさんあるはず。それぞれの研究者たちが大切にする、クリエイティビティの源をお伝えします。

こうして研究者を続けているのは、
人類学をもっと広めたい想いがあるからです

現在は「外国にルーツを持つ子ども」をテーマに、文化人類学を研究するリーペレス・ファビオさん。国際的な経歴に富んだファビオさんは、なぜ文化人類学者を志し、東北は仙台の地で研究に邁進することになったのでしょうか。研究内容や、仙台での暮らしについてもお聞きしました。

― 現在の研究内容を教えてください。

僕が専門にしているのは文化人類学で、主に外国にルーツを持つ人たちについて研究中です。国を転々としながら育った人たちがどのような生き方をしているのか、そして自分と全く異なる文化背景を持っている人とどのように関わっていくのかを「ライフストーリー」という手法で調査しています。僕のように子どもの頃から国際移動を繰り返しながら育った人たちに協力してもらいながら、現在も研究を進めているところです。

― 「子どもの頃から国際移動を繰り返していた」とのことですが、どのような生い立ちだったのでしょうか?

僕は韓国人のお父さんとメキシコ人のお母さんとの間に、韓国で生まれました。国籍はメキシコなのですが、僕が生まれた直後に両親が離婚してからはお母さんと一緒に過ごすことになったんです。お母さんが外交官として働いていたこともあって、子どもの頃から国と国を移動する機会が多く、韓国で1年、日本で7年、マレーシアで4年、そして再び韓国で5年ほど過ごしました。中学校を卒業するまでは日本の公立学校と海外の日本人学校に通い、日本の義務教育を受けています。高校からは韓国にあるインターナショナルスクールで英語中心の教育を受けました。高校に通った後、最初はアメリカのカリフォルニア州にある大学に入学したのですが、ウィスコンシン州の大学に編入しています。

ロサンゼルスの大学に在学していた頃のファビオさん。突然『ブレード2』のプレミアとパーティーに招待され、ファビオさん一人だけパーカーとジーンズとサンダル姿で、映画関係者と一緒にレッドカーペット歩いて参加したそう。

― 子どもの頃から複数の国に住むことで、それぞれの環境の違いに悩んだことはありましたか?

顔で判断されることは、色々ありました。たとえば、インターナショナルスクールに通っていたときのことです。高校1年生の夏休みを使って、英語を勉強するためにアメリカに行ったんです。当時は英語を勉強し始めたばかり。僕は全く英語が喋れない状態だったのですが、アメリカに到着した途端、税関に止められたかと思えば空港警察に羽交締めにされ、空港警察の収容所にも入れられてしまったんです。数時間後、閉ざされた部屋の中で写真を見せられながら「この人は誰なんだ」というように色々なことを尋問されました。なぜ僕が税関で止められたのかというと、パスポートの国籍はメキシコになっているけれど外見がメキシコ人っぽくないし、しかもチケットを見ると韓国からアメリカに来たことになっているから、空港警察が「これはおかしい」と判断したみたいで。僕の外見とパスポート、そして住んでいたところを考えると全く一致しないので疑わしいと思われたんです。そのときはなんとか和解しましたけど、今でも仙台に住んでいると警察から職務質問されることが時々あります。ある時期、何度もそれが続くことがあったので「面倒くさい!」と思ってしまい、警察に僕が怪しい者ではないとすぐに分かってもらうにはどう対応したら良いかと考えるようになりました。外国人の間では「日本語を話せないふりをすれば警察も諦めるよ」と言われているのですが、実際はそうじゃない。今の警察は「日本語が話せない人だったらゆっくり話せば分かってもらえる」と思っているみたいで、日本語を話せないふりをしても逆にどんどんしつこく質問されます。日本語が分かるんだったら、結局日本語で答えるのが一番ですね。

― アメリカの大学を卒業されてから、そのまま大学院に進学したのでしょうか?

大学を卒業してからはメキシコに移り住み、なんでも屋をしていました。当時は中学校や大学で日本語と英語の教師をしたり、売店で雑貨を売ったり、キッチンスタッフもしたりしました。あとはミュージシャンもやりましたね。バイトみたいなものをして暮らしていました。

― 色々な仕事をされてきた中で、研究の道を選んだのはどんなきっかけがあったんですか?

メキシコでは確かに色々な仕事をしましたが、どれも短期間で、決まった職に就くことができませんでした。そのときは「自分の人生をどうやって生きていけば良いんだろう」と悩んでいた時期でもあったんです。そこで当時カナダに住んでいたお母さんを訪ねようと、いったんメキシコを離れました。カナダでは暇つぶしに大学の図書館に通っていたんですけど、読み漁っていた本と、そこで出会ったさまざまな人に刺激を受けて、突然「大学院に行って勉強してみようかな!」と思うようになったんです。それが東北大学の大学院に入学するきっかけになりました。いざ大学院に入学したらなぜか後期に行って、気づいたら学位まで取ってしまった。そして現在も文化人類学を営んでいます。

― 大学院で研究を進める中で研究者になろうと思うきっかけがあったんですね。どんな出来事がありましたか?

入学した当初は、修士だけを取ろうと考えていました。でも、僕の研究に協力してくれる人たちの話を聞いていく中で「これは面白い。もっと掘り下げていきたい」と思うようになったんです。あとは、人類学という学問分野をもっと広めたいという想いもあります。今こうして研究者を続けているのは、高等教育や大学教育だけに関わらず、広く伝えられる機会があればいいなと思っているのも大きいですね。

― そもそも、なぜ東北大学を選んだのでしょうか?

カナダで大学院に行こうと決めたとき、知り合いに相談しました。その人は大学教員をしていて、彼が色々と紹介してくれたんです。でも一筋縄にはいかず、紹介された人から次々と紹介が繋がっていきました。嫌な言葉で言ってしまうと、たらい回しにされた感じ(笑)。最終的に東北大学で行動社会学を研究している先生が返事をくれて、僕のやりたい研究を伝えたら「文化人類学の先生の方がいいんじゃないか」と言われたんです。ここでもたらい回しか、と思ったのですが、とりあえず紹介してもらった東北大学の文化人類学の先生に連絡してみました。だけど、先生からはなんの返事もなかった。メールの返事がないのは初めてのことで、僕にとってはむしろそれが決め手になりました。先生のもとで勉強する準備をするために、通っていた図書館で改めて文化人類学について勉強したんです。そうしたら僕が今まで読んでいた本と見事に一致して「ちょうどいい!」と感じて、入口は軽い気持ちだったのかもしれませんが、この分野をどんどん学んでいくと面白くなっていきました。次第に「もしかしたらこの中に複雑な移動をしてきた自分や、僕と同じような移動を繰り返してきた人の研究ができるんじゃないか」と思い、文化人類学をベースに研究するようになりました。大学院の入学前に僕がたらい回しにされていたのは、自分の中でもどの学問に絞って勉強するのかが定まっていなかったからだというのも分かったんです。当時、大学院入試の面接ではジェンダーやタトゥーについて研究しようと思ったのですが、最終的にはもともと興味を持っていた「外国にルーツを持つ子ども」を研究することにしました。

― 研究のベースとなる学問を選ぶのにも紆余曲折があったんですね。大学院への入学が決まったときの喜びもひとしおだったのではないでしょうか?

最初は軽い考えで大学院に行こうと思って入試を受けたので、合格しないだろうと思っていたんです。それですぐカナダに帰ったのですが、なんと合格通知が届いていて。カナダに帰ってきちゃったのに、また再入国手続きをしなくちゃいけなくなりました。だから色々な手続きがギリギリになっちゃって、とても焦りましたね。あと、日本の書類の手続き上、郵送しなくちゃいけないものが多くて困りました。封筒の中に返答用の封筒が入っているから、それを使って返事をしなきゃいけない。「なんじゃこりゃ!メールじゃダメなのか?」と思いました。カナダで日本の学生ビザをもらうのに何ヶ月もかかってしまって、発行が入学の時期を過ぎてしまいそうだったんです。でも在カナダ日本大使館の人に、はじめは観光ビザで日本に行って現地の入国管理局で手続きをすれば良いと教えてもらって。それで3月末に日本へ行って滞在許可の変更手続きをしたので、ギリギリ間に合った状態でした。

― 実際に仙台で大学院生活を送ってみて、どう感じましたか?

僕が最初に仙台に来たのは2013年なのですが、手続きに忙しかったおかげで不動産を見る暇もなく、住む場所は後回しになっていて。大学の寮があればそこに住もうかなと思っていたら、定員オーバーで入れませんでした。そこで、当時は川内に東西線の工事をしている人たちが住んでいる寮があったので、そこに決めて半年間住んだんです。その寮には共有スペースがあったのですが、ほとんどの時間をそこで過ごしていましたね。工事に携わっている人は東北の色々なところから来ていて、一緒に食事をするなど仲良くする機会がたくさんありました。でも方言で何を言っているのか分からなくて、聞き取るのが大変だったのを覚えています(笑)。基本は自宅と大学の研究室を行ったり来たりする生活でした。たまに夜遅くに家に帰ると警察に職務質問されることもあって嫌な経験もしてきましたが、今になって振り返ると面白い経験だった。当時は辛かったことも笑って思い返せるようになるものだな、と感じています。

― 仙台で暮らしていて良かったことはありますか?

そもそも僕は東北大学を選ぶことについて、あまり深く考えていませんでした。東北大学がどういう大学なのかに気づいたのも、実は仙台に着いてからなんです。ましてや合格するなんて思ってもいませんでしたから。東北大学は日本を代表する国立の研究機関なので、そこに通っているだけでも自分を誇らしく思えます。僕が仙台に暮らしてから今年で9年目を迎えるのですが、今ではこれまでの人生の中で仙台での生活が1番長くなっています。その分、他の国と比べて人との関わりも1番深くなっている。バーで知り合った人の紹介で共通の友達ができたり、すぐには仲良くならなくても何かしらのきっかけで話をしたり、色々な人と仲良くなりました。そんな人たちが僕を受け入れて仲良くしてくれるのが嬉しいですね。

前編 > 後編

リーペレス・ファビオ

2019年、東北大学大学院文学研究科で博士号(文学)を取得。2022年3月まで東北大学大学院文学研究科の助教として活躍。専攻は文化人類学。

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