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クリエイターインタビュー|門傳 一彦 さん(前編)

撮影や編集はもちろん、映像に合わせた曲まで自身でつくってしまうマルチな映像作家、門傳 一彦(もんでん かずひこ)さん。日本で唯一音響設計学科がある九州芸術工科大学(現:九州大学芸術工学部)に進学し、「音」のデザインについて学んだ後、映像制作を仕事にするようになるまでのこと、仙台での暮らしや仕事についてお話を伺いました。

 

―九州芸術工科大学芸術工学部音響設計学科のご出身と伺いましたが、もともと音楽がお好きだったんですか。

高校入学の頃、突然興味が湧いたんです。「演奏」ではなくて「つくる」方に。その後作曲のレッスンを受けていたときに、先生から「音楽の先生になるなら音大に行かなきゃだめだけど、作曲家には音大を出ていない人もたくさんいる」という話を聞き、音楽だけじゃなく、もっと広く音自体について学びたいと思うようになりました。

―九州芸工大にした決め手は何だったんですか。

学校案内の1ページ目に「デザインとは、かっこいいものをつくることではなくて、『人の暮らしを豊かにするもの』をつくることだ」という主旨のことが書かれていて、そのことにすごく共感したのが大きかったです。また「芸工大生=変わり者」みたいなことが書かれていて、それもよかったですね(笑)。

九州芸工大時代を振り返る門傳さん

―大学ではどのようなことを学んだんですか。 

音響設計学科では、「音に関するあらゆること」を扱います。物理的な「波」としての音も扱いますし、例えばスピーカーやマイクのことであれば電気についても学ぶ必要がある。「声」を発する喉や音を聴く耳については生理学や医学の知識も必要ですし、聴いた音をどのように解釈するかという心理学、言語学のような分野もありました。もちろん音楽の授業も少しあって、必ず全員がピアノと何かもう一つ楽器をやっていました。

変わったところでは「聴能形成」という授業もありました。短いフレーズを2回鳴らし聴き比べて「音量が何dB(デシベル) 違ったでしょう」とか、「何Hz(ヘルツ) あたりが強調されていたでしょう」みたいな質問にひたすら答えていくというものでした。

―音って感覚じゃないんですね。

訓練の要素もたくさんあります。デザインの大学だったこともあって、感覚だけに頼るのではなく、きちんと論理立てて考えることを叩き込まれました。

―大学を途中で辞められたということですが、作曲に興味がなくなった訳ではないですよね。

はい。幅広くデザインに興味が湧いてきたことがきっかけです。例えば学園祭では、ステージの設計施工から広報ツールの制作、照明、音響まで全部自分たちで行うのが通例だったんですが、そういう機会が多い大学なので他の分野にも日常的に親しんでいたんですよね。また学外でもいわゆるまちづくり活動に関わる機会もあり、そういう中で学校案内にあった「『人の暮らしを豊かにするもの』をつくる」ということを一層意識するようになったんですが、「いい暮らしとは?」というのはどの授業を受けても絶対に分からないだろうなと思ったんです。

言葉が通じなくて文化も違う、暮らすだけでいちいち苦労するところにいけば「いい暮らし」のヒントがつかめるかなと思い、大学を中退してドイツに行くことにしました。

―ドイツに決めたきっかけは何かありますか。

何を学ぶべきかについては一旦すべて白紙の状態になったんですが、唯一そのとき思い当たったのが、日本では主にシュタイナー教育として知られている「人智学」でした。

教育のみならず農業、建築、芸術 、医学などあらゆる分野を統合した、「人の暮らしのための知恵」みたいな学問なので、まずはそれをキーワードに、人智学協会の中心地であるスイスのドルナハに近いところに行ってみることにしたんです。

大学ではドイツ語の単位を落としていたので(笑)、まずはドルナハに1番近いドイツのフライブルクというまちにある語学学校に行くことにしました。

―フライブルクでは、デザインの勉強もされていたんですか。

いえ、していなかったです。毎日いろんなところを駆け回りながら、四季の移り変わりやフライブルクでの暮らしを体感していました。音大があり留学生が集まるまちで、語学学校でも定期的にコンサートが開かれていたので、毎回曲をつくって出演&録音していました。慣れた頃には会場の設営計画の提案とかもしていましたね。

―フライブルクの次に、エンゲンへ行かれたんですよね。

はい。エンゲンのユーゲントゼミナールという学校にいました。高校卒業後〜20代前半くらいの人が住み込みながら学ぶ農業・林業・芸術学校っていう感じのところで、毎日「仕事」の時間がありました。畑仕事や木を伐るところからの薪づくり、炊事洗濯、牛の世話など、午前中に仕事をして、午後にさまざまな授業を受けるという毎日でした。

―芸術系の授業はどういったものだったんですか。

身体表現や絵画、音楽もやったし、鍛冶も1回やりました。おもしろかったのは、例えばプロのピエロによるワークショップ。1週間くらい毎日午後はピエロのことについてずっと勉強するんです。他にも粘土造形を通して「アートとは?」「未来をつくるとは?」「個性とは?」みたいなテーマを考える2週間みっちりのワークショップとか、かなり幅広かったです。

―農業にも興味があったんですか。

当時もですが、今もあります。やっぱり「人の暮らし」に興味を持ったところからスタートしているので。生きることに関わるあらゆることを知りたいと思っていて、漁業にはまだ今のところ縁がありませんが、農業や林業など第一次産業には興味があります。

―学校のプログラム以外で、今に活きている経験はありますか?

バックグラウンドが違ういろんな人たちと一緒に暮らした経験が、仕事でさまざまな業種の人と話をするときに活きていますね。知らないこと、自分の考えと違うことでも素直に受け入れることができるのは、あのときの経験のおかげだと思います。

 

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門傳 一彦

企業・団体・イベント・研究プロジェクト等のPR映像の制作や写真撮影などを中心に活動しています。撮影・編集に加え、映像用の音楽まで一貫して制作するスタイルです。

デジタル工作機器を使ったプロダクト開発に携わった経験もあり、映像・写真に留まらない観点で仕事をしています。

神奈川県生まれ、福岡、ドイツを経て、2008年より仙台在住。学生時代の専攻は音響学、渡独中には農林業体験や様々な芸術表現の分野に触れ、現在に至る。

 

(リード)

撮影や編集はもちろん、映像に合わせた曲まで自身でつくってしまうマルチな映像作家、門傳 一彦(もんでん かずひこ)さん。日本で唯一音響設計学科がある九州芸術工科大学(現:九州大学芸術工学部)に進学し、「音」のデザインについて学んだ後、映像制作を仕事にするようになるまでのこと、仙台で暮らしや仕事についてお話しを伺いました。

 

(①大学→ドイツ)

―九州芸術工科大学音響設計学科のご出身と伺いましたが、もともと音楽がお好きだったんですか。

 

高校入学の頃、突然興味が湧いたんです。「演奏」ではなくて「つくる」方に。作曲のレッスンを受けていた先生から、「音楽の先生になるなら音大に行かなきゃだめだけど、作曲なら音大を出ていない人もたくさんいる」という話を聞き、音楽だけじゃなく、もっと音自体について深く学びたいと思うようになりました。。

 

―九州芸工大にした決め手は何だったんですか。

 

「芸工大生=変わり者」みたいなことが学校案内の1ページ目に書かれていて、それは大きな要因でしたね。「デザインとは、かっこいいものをつくることではなくて、『人の暮らしにとって本当にいいもの』をつくることだ」とも書かれていて、そのことにすごく共感できたというのもあります。

 

―大学ではどのようなことを学んだんですか。

 

音響設計学科では、「音に関するあらゆること」を扱います。物理的に「波」として音を扱う場合には物理学を、スピーカーやマイクのことであれば電気について学ぶ必要がある。「声」だったら喉で発して耳で聴くから、生理学や医学の知識も必要ですし、聴いた音をどのように判断するかという心理学、言語学のような分野もありました。もちろん音楽の授業も少しあって、必ず全員がピアノと何かもう一つ楽器をやっていました。

特に印象に残っているのが「聴能形成」という授業で、短いフレーズを2回聴いて「音量が何db(デシベル) 違ったでしょう」とか、「何Hz(ヘルツ) あたりが強調されていたでしょう」みたいな質問にひたすら答えていくというものでした。

 

―音って感覚じゃないんですね。

 

感覚じゃないですね。デザインの大学だったこともあって、感覚だけに頼るのではなく、きちんと論理立てて考えることを叩き込まれました。

 

―大学を途中で辞められたということですが、作曲に興味がなくなった訳ではないですよね。

 

はい。幅広くデザインに興味が湧いてきたことがきっかけです。例えば学園祭では、ステージの設計施工から広報ツールの制作、照明、音響まで全部自分たちで行うのが通例だったんですが、そういう機会が多い大学なので他の分野にも興味が出てきたんですよね。そこから、学校案内にあった「『人の暮らしにとって本当にいいもの』をつくる」ということを意識するようになったんですが、「いい暮らしとは?」というのはどの授業を受けても絶対に分からないだろうなと思ったんです。

言葉が通じなくて文化も違う、暮らすこと自体が難しいところにいけば「いい暮らし」のヒントがつかめるかなと思い、大学を中退してドイツに行くことにしました。

 

―ドイツに決めたきっかけは何かありますか。

 

当時すごく関心があった、シュタイナー教育における「人智学」を学びたいなと思ったことがきっかけです。教育のみならず農業、建築、芸術 、医学などあらゆる分野を統合した、「人の暮らしのための知恵」みたいな学問で、人智学教会の中心地であるスイスのドルナハに近いところに行ってみたかったんです。

大学ではドイツ語の単位を落としていたので(笑)、まずはドルナハにいちばん近いドイツのフライブルクというまちにある語学学校に行くことにしました。

 

―フライブルグでは、デザインの勉強もされていたんですか。

 

いえ、していなかったです。毎日いろんなところを駆け回りながら、四季の移り変わりを感じたり、フライブルクでの暮らしを満喫していました。音大があったりと音楽が盛んなまちで、語学学校でも定期的にコンサートが開かれていたので、毎回曲をつくって演出演していました。九大での経験を活かして、会場の設営計画の提案とかもしていましたね。

 

―フライブルクの次に、エンゲンへ行かれたんですよね。

 

はい。エンゲンのシュタイナー教育関係の学校に通っていました。高校卒業後ぐらいの人が通う農業・林業・芸術学校っていう感じのところで、毎日「仕事」の時間がありました。畑仕事や木を伐るところからの薪づくり、牛の世話など、午前中に仕事をして、午後にさまざまな授業を受けるという毎日でした。

 

―芸術系の授業はどういったものだったんですか。

 

身体表現や絵画、音楽もやったし、鍛冶も1回やりました。おもしろかったのはプロのピエロによるワークショップ。2週間にわたり、毎日午後はピエロのことについてずっと勉強するんです。粘土造形を通して「アートとは?」「未来をつくるとは?」「個性とは?」みたいなテーマを考えるようなものとか、かなり幅広かったです。

 

―農業にも興味があったんですか。

 

当時もですが、今もありますね。やっぱり「人の暮らし」に興味を持ったところからスタートしているので。生きることに関わるあらゆることを知りたいと思っていて、漁業にはまだ今のところ縁がありませんが、農業や林業など第一次産業には興味がありますね。。

 

―学校のプログラム以外で、今に活きている経験はありますか?

 

バックグラウンドが違ういろんな人たちと一緒に暮らした経験が、仕事でさまざまな業種の人と話をするときに活きていますね。知らないこと、自分の考えと違うことでも素直に受け入れることができるのは、あのときの経験のおかげだと思います。

 

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(②帰国後、映像の仕事を始めるまで)

2年間のドイツ生活の後は、どうされたんですか。

 

横浜市の実家に戻り、アルバイト生活をしていました。オランダの音大を受験する予定での一時帰国のつもりが、派遣バイトの日々で精神的に疲弊し、何かをつくる気分ではなくなってしまいました。どこかに行ってリセットしたいなと考えたときに仙台で暮らすことを思いつき、下見がてら旅行に出かけました。

 

―仙台へいらしたことはあったんですか。

 

いえ、そのときが初めてでしたね。るーぷる仙台に乗ったりしながらまちの様子を見て回り暮らしていけそうだと思ったので、そのまま不動産屋に行って家を決めました。一旦実家に戻り、1カ月後には仙台で暮らし始めてました。

 

―急展開ですね。決め手は何だったんでしょう。

 

規模感としてある程度以上のまちであるということと、海も山も近いことが決め手になりました。初来仙のときに見た山寺の雪景色がすごく気に入っちゃって、近くにこういう場所があるのはいいなと。

 

―仙台での仕事は決まっていたんですか?。

 

いえ、まず行ってみて考えようという感じでした。実家にいるとき同様、仙台に来てからもしばらくは派遣のバイトをしていました。それと合わせて、写真事務所で見習いみたいなこともしていました。未経験者OKの求人を見つけて話を聞きにいったら、「撮れるようになったら仕事をやる」ということだったので、カメラを買って挑戦してみることにしたんです。

 

―それまで、写真の経験はあったんですか。

 

興味があって大学の頃から写真自体はよく撮っていましたが、カメラの仕組みなどをきちんと学んだことはありませんでしたね。

 

―映像のお仕事はどのような経緯で始められたんでしょう。

 

最初に働いていたブライダル専門の写真事務所で、記録ビデオの編集をしたのがスターです。大学で友だちの映像制作作業を見ていて、何をすればいいのか感覚的にはわかっていたので、「多分できると思います」と言ってやらせてもらいました。その後、撮影もさせてもらえるようになったんですが、ブライダル以外のものも撮りたくなる訳ですよ。仕事のために買ったカメラがそこそこいい動画が撮れるものだったので、いろんな仕事の映像をつくることを試しにやってみました。

 

―その映像はどういったものだったんですか。

 

ネギ農家の友人に仕事の様子を撮影させてもらって、それに音楽をつけたのが1本目。

(ネギ農家映像埋め込み https://vimeo.com/42127122

その後、同様に 菊信紙工所さんの仕事映像をつくってみたら、周りからの反応も良かったし、自分でもすごいしっくりきたんです。菊信紙工所の社員さんたちからも「俺たちこんなかっこいい仕事していたんだ」と喜んでもらえて、「こういうものをつくりたいな」と思うようになりました。

(菊信映像 https://vimeo.com/44092861

 

―この映像の音楽も門傳さんがつくられたんですよね。

 

そうです。実は機械のリズムに合わせて曲をつくっています。そういうつくり方って、映像と音楽の両方をやっている自分だからこそできることだなと改めて感じましたね。

 

―先に映像を撮って、その映像に音楽をつけていくんですか。

 

この映像は完全にそうですね。ちなみに、ネギ農家の方の音楽は、「ネギ」という発音のアップダウンだけでメロディをつくりました。若干節回しに無理はあるんですけど(笑)。

 

―音楽に精通していることによって、映像の撮り方に影響していると感じることはありますか。

 

撮り方に関してはあまりないですね。どういう編集するかはあまり決めずに撮っていることがほとんどなので。ただし、編集作業にはかなり影響があります。音楽のリズムやフレーズの切れ目に合わせて、カットの長さを決めたりというのはよくあることです。粗めに編集をして、音楽をつくって、音楽に合わせて編集をつめて、という感じで画と音を往復しながら映像をつくっていくことが多いですね。

 

―仕事以外でも音楽をつくることはありますか。

 

あんまりつくらないですね。そこが純然たる作曲家や作曲好きと違うところで、私の場合ははっきりとした目的が曲をつくるモチベーションになっているんだと思います。遊びで即興的にピアノを弾いたりはしますけどね。

 

―映像の撮影に入る前には、クライアントとどのような話をしますか。

 

「どういう映像にしたいか」という表面的な部分は最初のヒアリングで聞き出しておくんですが、クライアント本人が気づいていない可能性や隠れた魅力といった部分は、聞いて分かることじゃないので、撮影しながら探っていく感じです。

 

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